Column コラム

木野 雄介

  • 私立中高講師
  • 歴検日本史博士

AIの議論は、なぜいつもズレてしまうのか

2026.07.17

問:(    )にあてはまる言葉を答えなさい。

昨今は(     )が答えを教えすぎるから、子どもの思考力が奪われているのではないだろうか。

 

あなたは(     )に何を入れましたか?

多くの方は「AI」と答えたのではないでしょうか。

 

教育現場やメディアではAIの危険性が繰り返し議論されています。

しかし、本当に向き合うべき本質は、AIの是非ではないと私は考えています。

私なら、この(     )には「教師」や「学校教育」と入れます。もちろん、多くの教師は生徒のために日々尽力しています。しかし、教育の構造そのものが、生徒自身の自己修正を促す仕組みになっているかは、改めて問い直す必要があります。

私が問題だと考えているのは、「誰が答えを教えるか」ではなく、今の学校が、学習者の自己修正を支える教育の構造を設計できているかという点です。

 

私は、パブリックリレーションズ(PR)の概念を教育の土台に据えています。PRの本質とは、目的を達成するために、ステークホルダー(関わる人たち)との関係を、「倫理観」を前提とした双方向の対話自己修正を通じて構築・維持していくことです。この「自己修正」の考え方を教育に置き換えると、評価の役割を改めて問い直す必要が見えてきます。

評価には、単位認定や選抜のために学習到達度を確認する役割もあります。しかし、それ以上に重要なのは、生徒が次の学びにつなげるための「自己修正の装置」として機能することではないでしょうか。

 

そう考えてみると、通知表の数字だけでは、生徒は自らの学びをどう改善すればよいのか、その方向性を見いだすことができません。結果の記号だけを突きつけられても、生徒たちは自らの学びのプロセスをどう変えればいいのかが分からないからです。

全国の中高では、試験前になると部活動を休止し、学習時間を確保します。しかし、本当に自己修正を重視する教育なら、時間を保障すべきなのは試験前ではなく、むしろ試験後ではないでしょうか。本来、評価が最も価値を持つのは結果が返却された直後です。その瞬間こそ、生徒は何ができて何ができなかったのかを把握し、次の学びへと生かすことができます。いくら学習時間を確保しても、試験が終わった瞬間に多くの生徒が「学習から解放された」と教科書を閉じてしまうのでは、評価が自己修正のフィードバックとして機能していないと言わざるを得ません。

 

これは、健康診断に例えると分かりやすいかもしれません。

健康診断の前だけ急に運動し、食事に気をつけ、最も健康に“見える”状態で検査を受ける。しかし異常が見つかったとしても、その後の治療や生活改善をしなければ、健康診断を受けた意味はありません。

日本の学校教育も、その構造はこれとよく似ています。検査で良い数値を出すこと(=試験で良い点数を取ること)ばかりに終始し、本来最も重要であるはずの「見つかった問題点を解決するために注力すること」が完全に抜け落ちてしまっているのです。

 

ただし、教育における評価が健康診断と唯一異なるのは、それが「マイナスをゼロに戻すためだけのもの」ではないという点です。評価を通じて、自分にしかない強みや、良い意味で特異性のあるポイントを発見し、それをさらに伸ばしていくという前向きな選択肢もそこには存在します。一律の基準に合わせるだけでなく、自らの特性を知り、どう生かしていくかを主体的に決めていく。それこそが、学びにおける自己修正のもう一つの側面ではないでしょうか。

 

では、AIは教育に何をもたらすのでしょうか。

 

AIの本当の価値は、高精度な答えを得ることではありません。学習者が問いを修正し、試行錯誤を繰り返せる「Try and Learn」の循環を支える点にあります。納得できるまでフィードバックを受け、自ら学びを更新し続けられる環境が生まれたのです。AIも人間の要求によって修正を行い、新たに人間に提示します。つまり双方の修正によって、より充実したコンテンツが形成されることになります。

 

従来の学校教育では、生徒は教師や評価の仕組みを選ぶことができませんでした。フィードバックの質そのものを生徒側が選択することはできず、生徒がフィードバックの受け方を主体的に選択できる余地は極めて限られていました。

 

しかしAIは、生徒自身が「もっと考えさせて」「答えはまだ言わないで」と、AIとの関わり方や学び方を自ら設計できます。主体的に学ぼうとすれば、自らの主導権でフィードバックを選択し、「Try and Learn」を回し続けられる自由がここに生まれたのです。

 

本当に問われるべきなのはAIの是非ではなく、評価を自己修正の装置として機能させる教育の構造です。学習者が「Try and Learn」を回し続けられる環境が実現すれば、「誰が答えを教えすぎるのか」という冒頭の問い自体、もはや立てる必要がなくなるでしょう。