Column コラム

校則は何のためにあるのか?

2022.06.29

こう-そく【校則】学校の規則。児童・生徒・学生が守るべき規則。

この「守るべき」の解釈で、

「校則は守るためにあるんだ」

「社会にはルールがある。それを守る練習のために校則はあるんだ」

と主張する人をたびたび見かけます。

果たしてそうでしょうか。

この世のルールというのは、もともとは存在しないものでした。

もともとは「自然の摂理」しかなかったのです。

人間が増え、「社会」を形成するようになると、ルールが生まれるようになりました。

なぜでしょうか?

人間は、社会に属する人たちと共存することを最上位の目標にしたからです。

この目標を達成するために、「必要な手段は何か?」「妨げになることは何か?」と考えてルールが誕生したのです。

例えば、共存に必要な手段として、社会の草創期であれば、「田植えに協力する」、「戦が起きたときは戦う」、「税を納める(徴収する)」、などのルールが誕生しました。

一方、共存の妨げになることには、人の財産や命を奪うなど、反社会的なことが挙げられます。

つまり、ルールとは、最上位の目標「共存していく」を達成する「手段」であって、守ること自体は目的ではないということです。

ですから、そのルールが手段として最適でないときは、ルールを修正したり、廃止したりすることもあるべきなのです。

その一例として、弱肉強食の帝国主義がグローバル・スタンダードだった時代、日本には徴兵令(のちの兵役法)という法律があり、20歳以上の男子には兵役の義務が課せられました。

しかし、現代日本において、徴兵は共存していくための最適な手段ではない、と考えられているため、兵役の義務はないままです。

ここで気を付けたいのは、明治時代の徴兵令が間違っていた、というわけではないということです。この時代においては必要な手段だったけれども、現代では必要なくなったので修正したのです。

ですから、将来、共存のために徴兵が必要だという時代・社会になれば、再ルール化されることもあり得るのです。(個人的には嫌ですが)

さて、このような観点から、学校の校則はどうなっているでしょうか。

学校はいろいろな人が集う学び舎なので、共存する上で必要なルールであれば許容されると思いますが、「徴兵令」のように現代社会においては、もはや不要になっているルールは残っていないでしょうか。

例えば、かつては共存していく上で必要と考えられた、髪型を制限するルールは、時代や社会が変化し、多様な価値観が尊重される今日においては、その役割は果たせません。

それどころか、髪型の制限によって、学校に通いづらくなったり、学校から排除されたりしている子供がいるなど、学校が子供たちの人権を侵害しているという現実に気づくべきでしょう。

そして、「他者と共存する上では、他者の価値観を不当に否定せず、尊重する」という考え方こそ、学校で学ぶべきことだと私は思います。

こういったことに気づくためには、最上位の目標を共有し、常にそこに立ち返るという、視座の高さが必要です。これは、パブリック・リレーションズの倫理観の考え方です。最上位の目標をGPSのように働かせることで、手段が正しく運用されているかを常に確認できます。

視座が高ければ、もし誤った方向に進んでいることに気づいたとき、本来の目指すべき方向へ直すことができます。これはパブリック・リレーションズの自己修正の考え方です。

そして、最上位の目標の共有や、自己修正の手段としては、さまざまなステークホルダーたちとの対等な対話双方向性コミュニケーション)によって合意形成をしていくことが大切です。校則の場合、当事者である子供たちはもちろん、教員、保護者、卒業生、地域の人たちなどが含まれるでしょう。これもパブリック・リレーションズの考え方です。

学校は、さまざまな価値観を持つ多様な人が集い、共存していくための練習の場です。

そのために本当に必要な校則とは何か、まずは最上位の目標を共有するところから、当事者たちの声を聞いてみてはいかがでしょうか?