Column コラム

栢之間 倫太郎

  • サセックス大学大学院
  • 元小学校教員、新渡戸文化学園外部パートナー

先生が「わたし」をつくっていく?

2025.06.30

こんにちは。サセックス大学で「教育と開発」を学んでいる栢之間です。今回は、学校という場において子どもたちにとっての「わたし」という認識がどのようにつくられていくのか、そしてそこにパブリック・リレーションズの視点がどう関わるのかを考えてみたいと思います。

学校で過ごす時間は、子どもたちにとってとても長いものです。友達と話す時間、先生にほめられる瞬間、誰かに注意される体験。そんな日々の何気ないやりとりの中で、子どもたちは自分なりの「私はこういう人間だ」という感覚を育んでいきます。このような他者や社会との関わりや、交わされる言葉によって形作られていく自己認識を、subjectivity(主観性)と表現することがあります。

こうした主観性の形成に大きく関係しているのが、interpellation(呼びかけ)という概念です。簡単言うと、誰かに声かけをする際に私たちが使う言葉に無意識に含まれる“力”のようなものを指します。たとえば、警察官が「おい、君!」と声をかけたとき、その呼びかけに「自分のことだ」と感じて振り向くとき、私たちは無意識に「取り締まられる市民」という社会的役割を引き受けます。これは単なる言葉のやりとりではなく、社会が個人に「あなたはこういう存在だ」と無意識下で語りかけ、個人がそれに応じて行動を適応させていくという構造を有しています。

この用語は元々、国家などの権威が個人に対してどのように“役割”を与え、“理想”を内面化させるのか、またその機能によってどのように社会階級や身分が継続されるのかを分析するものです(フランスの哲学者アルチュセールを調べると、もっと興味深い学びがあると思います)ですが今回はその解釈を少し広げて、教室の文脈で考えてみます。

教室における権威者になり得る私たち教師が行っている「呼びかけ」とは何でしょうか?

「リーダーよろしくね」「そこのおしゃべりしてる人〜」「ちゃんとお片付けできる子は素敵だね」と教師から言われたとき、または誰かが言われているのを見聞きしたとき、子どもたちは何を受け入れるでしょう。「男子・女子で別れて並んでください」と言われたとき、性別とはどんな概念だと学ぶでしょう。「努力した人は必ず報われます」という言葉は、どんな価値観をつくりだすでしょう。

あえて少し広範な言葉選びをしてみましたが、これらの言葉はそれを呼びかけられた子どもたちのどのような主観性を形成しそうでしょうか。これらの言葉が悪いわけでは決してありませんが、この何気ない言葉たちが子どもたちの「私はこういう人間だ」という自認、または世界の様々な概念の認識にどのように作用するのかを考えてみると、今まで見えてこなかった可能性が見えてきます。

もちろん、先生たちは善意から言葉をかけていますし、何気ない普通の言葉たちです。しかしアルチュセールが語るように、何気ない言葉の中にこそ、私たちの思い込みや思想、理想像が潜んでいるものです。だからこそ私たち大人は、自分の発する言葉がどんな「呼びかけ」になっているのか、自分の眼差しがどんな役割を子どもに与え、内面化させているのかに、自覚的になる必要があるのだと思います。

ここで重要になるのが、パブリック・リレーションズの三本柱、倫理観・双方向性コミュニケーション・自己修正です。

【倫理観】私たちの言動は、子どもたち一人ひとりにどんなsubjectivityが育っていくかに大きな影響を与える。「衛星」のようにちょっと離れたところからinterpellationの観点で自分の言動をメタ認知し、子どもを教師や社会が思い描く「あなた像」で縛りすぎないように、多様なあり方を認識し、自分の理解を広げる。

【双方向性コミュニケーション】教師が権威として一方的に「呼びかけ」ていないか、その「呼びかけ」が自分の固定概念に紐づいていないかを認知し、子ども自身の語りや感情を丁寧にすくいあげる対話を目指す。日々の会話や雑談の中にこそ、子どもの真の声が潜んでいるかもしれない。

【自己修正】自分の言葉や思考を、常に振り返ること。どうしても教師はある種の権威であり、その言葉と思考には絶大な影響力があることを認知すること。自身の「呼びかけ」に過ちを感じたら、それを子どもたちにも伝えてみるのもいいかも…?

別のフランスの哲学者・社会学者のブルデューの言葉を借りれば、学校とは象徴的暴力(Symbolic Violence)が自然に作用する場とも言えます。つまり、力の構造があまりにも自然に日常の言葉や行動の中に溶け込んでおり、様々な主観性や価値観が子どもたちに浸透してくということです。もちろん、教師は悪者ではありません。しかし、教師はどうもがいてもある種の権力者です。だからこそ、教師という立場の力を、丁寧に意識し直すことが必要なのだと思います。

「そんなこと言ったら何も言えなくなっちゃうよ!」と、昔の教師だった自分から声が聞こえてきそうです。しかし、この概念を知った上で発する言葉と、自分の権力に無自覚な言葉では、全く意味が異なると思います。学校で形作られる子どもたちのsubjectivityに、良い悪いの線引きを明確にすることなどできません。しかし自分の中に「今自分が言おうとしたこの言葉は、何か違うかも…?」と感じられるセンサーを持つことは、とても重要だと思います。パブリック・リレーションズを手がかりに、共に考えてみませんか?